オモタン~思いやり探究~

思いやりの考察、体験談、エピソードなどを公開

思いやり訓練法

お久しぶりです。

最近、色々勉強してたりドタバタしてた事もあってかなり更新が遅れてしまいました。

 

今回は「思いやり訓練法」を紹介していきます。

 

例題その1

あなたは四人家族で男の子の赤ちゃんと女の子の赤ちゃんがいました。

今晩はその二人の赤ちゃんと家でゆっくり過ごしてました。

突然、煙臭くなって行き、たちまちこちから火が噴出してきました。

この時、ようやくあなたは火事に巻き込まれた事に気付きます。

既に二人の赤ちゃんは煙を吸ってて意識不明です。

あなたは最初二人の赤ちゃんを助ける為に、二人供担ごうとしましたが難しく、

どちらかの赤ちゃんしか担ぐ事ができませんでした。

その時あなたはどういう行動をしますか?

※火事場の馬鹿力やなんとか知恵を絞って二人担ぐ事ができたというケースは無しとします。

 

・・・

 

・・・

 

・・・

 

思いつく限りアンサーを書いてみます。

1.男の子の赤ちゃんを担いだ

2.女の子の赤ちゃんを担いだ

3.二人供諦めて自分だけ逃げた

4.三人一緒に死ぬ事にした

 

だいたいこの4つになると思います。

それでだいたいの人は1と2で悩むと思います。

 

それで1、2を選んでもどちらかを助けられなかった事に対して

後悔しながら生きていく道を辿る可能性が高いです。

 

かと言って、4を選択するのもあまりにも悲しい結末です。

3は論外です。

 

こういうあちらが立てばこちらが立たず的な話になるとトロッコ問題を思い出しますね。

 

トロッコ問題 - Wikipedia

まず前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。

(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。

そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。

(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。

つまり単純に「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」という問題である。功利主義に基づくなら一人を犠牲にして五人を助けるべきである。しかし義務論に従えば、誰かを他の目的のために利用すべきではなく、何もするべきではない。

 

世の中見渡せばこういう 例題が沢山あって苦しむ事も多いですよね。

でも、何かしらの答えを出さなくてはなりません。

この時、大切な事は出した答えに対して後悔するのは簡単です。

この後、どう考えてどう行動するかが大きな分かれ道なのかなという気がしました。

 

例えば、心配停止の例もそうなのかなとふっと思い出しました。

激しい運動して突然倒れた。119番したけど、心配停止で死んでしまった。

でも、AED(心臓の血流を正しく戻す装置)さえ近くにあったら救えたよねって話がありました。

 

20年ぐらい前は、そんなにAEDが世の中に普及してなかったのですが、

今や大きなショッピングビルとか駅とか空港とか、学校とか、至るところにありますよね。

 

これはやっぱり、「よくなかったからなんとかしなきゃね」っていう働きがちゃんと世の中に認知された結果なのかなと思いました。

 

この、「よくなかったらかなんとかしなきゃね」っていうのも発信元があって、

実際そういう現場に居合わせた家族や友達だったりするのかなって思ったりします。

 

そういうのを突き詰めていくと「思いやり」を深めていく為には

こういう、一歩進んでは考えて苦しんで、一歩進んでは考えて苦しんでの繰り返しなんじゃないかなと思います。

 

それで多くの人が「なんとかしなきゃね」ってなった時にようやく、大きな一歩を踏めるという。

 

そういう意味では「思いやり」っていうのはそんなキラキラした素敵なものじゃなくて、すごくドロドロしたところからやっとみつけた一粒の光みたいなものなのかなと。

 

ですから、思いやりを本当に持つ為には色んな苦しみに向かい合って行く事が大切なんじゃないかなと。

 

まるであれですね。

 

猛暑の中、とてつもなく広い砂漠の中にポツンと存在している唯一のオアシスを探すための旅路みたいなものですね。